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第147話 時限公開③

Auteur: 花柳響
last update Date de publication: 2026-07-26 06:00:28

 アップロードが完了し、画面に『100%』の文字が表示された。

 私は最後にタイマーの設定画面を開いた。

 その前に、公開文の下書きを開く。

 最初に打ち込んだ一文は、あまりにも怒りに寄っていた。

『私は天野家に殺されかけています』

 違う。

 これでは、読んだ人間が私の感情だけを拾う。美津子はきっと、「追い詰められた娘の妄言」として切り捨てる。

 私はその一文を削除した。

 次に打ったのは、『天野家本邸で、過去二名の女性が不審な死を遂げました』だった。

 これもまだ弱い。事件の入口にはなるが、私自身が今どこに立っているのかが見えない。

 三度目に、私は息を止めるようにして、キーボードを叩いた。

『本データは、天野家本邸における過去の不審死および薬物投与の疑いについて、発信者である水科凛花が、契約書、帳簿、証言、消防記録、医療記録を時系列に照合した報告である』

 ようやく、呼吸が少し戻った。

 これは悲鳴ではない。

 これは、私が私自身の声を
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     大通りに出ると、車の排気ガスと、冷たいアスファルトの匂いが混ざり合った風が頬を打った。 交差点の角に、見慣れた看板が光っている。 自動ドアの前に立つと、ウィーンという軽い電子音とともに、人工的な暖気と、おでんの出汁の匂い、そして微かな揚げ物の油の匂いが押し寄せてきた。 完璧に空調が整い、防虫剤と清潔なリネンの匂いが漂っていた天野の本邸とは、まるで違う空気だった。 透さんは自動ドアの敷居を跨ぐ時、まるで未知の領域に踏み込むかのように、少しだけ肩を強張らせた。 普段の隙のないスーツ姿ではなく、今日はシンプルなニットの上にコートを羽織っているだけのラフな格好だというのに、彼の周囲だけ、空気が数度下がっているような錯覚を覚える。 店内に響く陽気なBGMが、彼の硬い表情とちぐはぐで、なんだかおかしかった。 私たちはレジ横の保温ケースの前に立った。 曇ったガラスの向こうに、丸みを帯びた白い塊がいくつも並んでいる。 私はバッグを足元に置き、財布を取り出そうとしたが、透さんが無言で一歩前に出た。 彼はガラスケースの中を、まるで企業の買収案件の資料でも読み込むかのように、真剣な眼差しで凝視し始めた。「……種類が多いな」 低い呟きが落ちた。「肉まんだけで、こんなにあるのか」「季節によって変わるんです。どれにしますか?」「君の希望に合わせる。……どれが普通なんだ」 店員がレジの奥から不思議そうな顔でこちらを見ている。 私はこみ上げてくる笑いを必死に腹の底へ押し込んだ。「一番普通のでいいです」「だから、その普通はどれだ」 透さんが真顔で私を振り返る。「透さん」「なんだ」「一番右上の、百五十円の肉まんです」 私が指を差すと、透さんはようやく納得したように頷き、店員に向かって「一番右上のものを一つ」と告げた。 手慣れない手つきで左手だけで財布から小銭を取り出し、会計を済ませる。 渡された小さな白い紙袋からは、じんわりとした熱

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     自動扉がスライドする低いモーター音が響き、淀んだ暖気が背後から押し出される。 一歩踏み出した途端、肺の奥を刺すような冬の冷たい外気が、コートの襟元から容赦なく滑り込んできた。 アルコール消毒液と、アイロンの当てられたシーツの匂いが、鼻腔から急速に薄れていく。 私は首元のマフラーを少しだけ引き上げ、冷え切った空気を深く吸い込んだ。「……荷物」 隣で、低く、少し掠れた声がした。 振り返るより早く、私の右手に提げていたボストンバッグの持ち手に、大きな手が伸びてきた。 長くて骨ばった、見慣れた指先。 しかし、その手は彼の左手だった。 視線を上げると、透さんがわずかに眉を寄せたまま、私からバッグを奪おうとしていた。 濃紺のウールコートの下、彼の右腕はまだ厚いガーゼと包帯で覆われ、胸の前に固定されている。火災の熱が皮膚を焼き切った生々しい痕は、まだ治癒の途中だ。 自分の身体が万全ではないのに、彼の中の何かが、反射的に私の重さを肩代わりしようとしている。「だめです」 私は持ち手にかかった彼の左手に、自分の左手を重ねて止めた。 冷たい外気に晒されていたはずなのに、彼の指先からは微かな熱が伝わってくる。「重くありませんから。着替えが数枚入っているだけです」「だが、君も退院したばかりだろう」「透さんこそ、その腕でバランスを崩したらどうするんですか。まだ無理をしていい時期ではないと、お医者様も仰っていたはずです」 私の言葉に、透さんはかすかに息を詰まらせた。 彼は自分の右腕に視線を落とし、それから、私がきつく握りしめているバッグの持ち手を見る。 透さんは重ねられた私の手をしばらく見ていた。やがて、ゆっくりと指先の力を抜いた。「……わかった」 左手が、名残惜しそうにバッグの持ち手から離れる。 私は彼の手が完全に引くのを待ってから、バッグを提げ直した。「本当に行くのか」 病院のロータリーへ向かうタイル張りの道を歩き出しながら、透さんが

  • 死ぬために嫁がされた私、二度目の転生で冷酷御曹司と運命を変えます   第202話 春の先まで⑥

     私は彼の手に握られた自分の手を、さらに強く握り返した。「ええ。私たちは、一緒に生きていくのよ。このうるさくて、痛い世界で」 私はコーヒーカップを持ち上げ、残っていた温かい液体を喉へ流し込んだ。 一時間後。 私たちは、基金の設立準備のための会合へ向かうべく、マンションの玄関に立っていた。 私は春物の薄手のトレンチコートを羽織り、ハンドバッグの留め金を確認する。バッグの奥底には、あの革張りのメモ帳が、今も私の記録の相棒としてひっそり収まっている。 透が、重い鉄製のドアのノブを押し下げた。 カチャリとドアが開き、外の世界への道が開かれる。 吹き込んできたのは、冬の凍てつくような寒気ではなく、湿り気を帯びた、柔らかい春の風だった。 微かに、どこかで咲いている沈丁花の甘い香りと、温められた土の匂いが混じっている。 玄関脇の小さな棚には、昨日買ってきたばかりの素焼きの鉢が置かれていた。 白灰蘭ではない。花屋の店先で、名前も知らずに選んだ、小さな黄色い花だった。茎は少し曲がり、葉の端には虫に食われたような穴が一つ空いている。天野本邸の温室なら、きっとすぐに捨てられていただろう。 でも、その不揃いな姿が、私は気に入っていた。 透が水をやりすぎないようにと、昨日から何度も鉢の土を指で確かめているのを知っている。完璧に管理するためではなく、枯らさないために見ている。その違いが、今の彼にはちゃんとわかっている。「今朝は、もう水をあげた?」「あげていない。昨日、君に『構いすぎると根腐れします』と言われたから」「よく覚えていました」「忘れたら、鉢より先に僕が叱られる」 真顔でそう言うから、私は思わず笑ってしまった。天野家の次期当主としてあれほど恐れられていた人が、今は小さな鉢植えの水やりで私の顔色を見ている。 私は鉢の横に置いた小さなメモカードに、日付と一言だけを書いた。『今日も、咲いている』 報告書でも、告発文でもない。 あの温室の、白灰蘭のむせ返るような匂いとは違う。生きた植物たちが、それぞれのペースで太陽に向かって呼吸

  • 死ぬために嫁がされた私、二度目の転生で冷酷御曹司と運命を変えます   第201話 春の先まで⑤

    「透さん」 「ん? また赤ペンか」 「今日は青ペンです」 「色の問題ではない気がする」 「では、心構えの問題ですね」  透はコーヒーカップを持ったまま、妙にきちんと背筋を伸ばした。 「君のペンに緊張する日が来るとは思わなかった」 「光栄です」 「褒めてはいない」 「でも、悪くもないでしょう」  返事に困ったように黙る彼が少し可愛くて、私は紙面に視線を戻しながら笑いを噛み殺した。 「ここの『家庭環境に恵まれない』という表現、少し変えましょう」  私は該当箇所をペン先で二度叩いた。 「これだと、まるで家庭の『運』だけが問題みたいに読めてしまうわ。私たちが支援したいのは、家で傷ついても助けを求められず、制度にもつながれていない子どもたちよ」 「なるほど。『恵まれない』だと、最初から線を引いてしまうな」  透がコーヒーカップを片手に、私の背後から覗き込んだ。  彼のシトラスの香りが、ほのかに鼻をくすぐる。 「なら、『社会的養護の枠組みから孤立した児童に対し』とするのはどうだろうか」 「ええ。対象と、制度からこぼれた理由を、同じ段落に置きましょう。あとで一文だけ抜かれても、元へ戻れるように」  私は透が提案した文言を、空いた余白にカリッ、カリッと書き込んでいく。  私は言葉を整えるこの技術を、誰かを切り捨てるためではなく、声を持てない子どもたちが、いなかったことにされないように使っている。  ペン先が紙を走る音を聞きながら、私は胸に深く、確かな熱が広がるのを感じていた。  透は私の横顔をじっと見つめていた。 「温室でも、その顔で僕の襟を掴んだ」  透は、私のペン先を見たまま続けた。 「今度は紙で済んでいる。あの時は君の指が僕の襟に食い込んでいた。……紙で済ませてほしいなら、僕も勝手に君の結論まで書かないことだな。君が怒る前に聞く。そういうことだろう」  私はボールペンを置き、彼を見上げた。 「よく分かっていますね。紙で済ませてほしいなら、勝手に一人で結論を出さないこと。次は青ペンではなく、何度でも襟を掴み

  • 死ぬために嫁がされた私、二度目の転生で冷酷御曹司と運命を変えます   第200話 春の先まで④

     透が、フライパンからスクランブルエッグを皿に移しながら答える。  皿の上に落ちた卵は、形だけならかなり自由だった。 「……これは、スクランブルエッグで合っていますか」 「合っている。たぶん」 「たぶん」 「料理本の写真とは、少し方向性が違うだけだ」  その言い訳があまりにも真面目だったので、私はフォークを持ったまま笑ってしまった。  私たちが今、全部を失った後に手元に残されたわずかな個人資産と、黒瀬たち元使用人らの協力を得て立ち上げようとしているもの。  それが、この児童支援基金だった。  テーブルの端には、何通もの封筒が重ねられている。  一つは、黒瀬から届いたものだ。彼は今、捜査に全面協力しながら、司法取引に近い形で証言を続けている。手紙には、硬く整いすぎた字でこうあった。 『私は罰を免れたいとは思いません。今後は記録を削る側ではなく、残す側として働きたいと願っています』  もう一つは、千尋からのものだった。  彼女は天野家を離れ、遠方の小さなホテルで住み込みの仕事を始めたらしい。便箋の端には、慣れない手つきで描かれた小さな白い花があった。 『私はまだ怖いです。でも、怖いままでも、言葉にしていいのだと、お嬢様に教えていただきました』  それから、佐伯から届いたメモには、相変わらず乱暴な字で、こう書かれていた。 『基金の記者発表をやるなら、余計な美談にはするな。あんたが嫌うだろうからな。必要なら、言葉の前と後ろを勝手に削られないよう見張ってやる』  私はその文字を見て、口元だけで笑った。  佳乃からは、返事のいらない葉書が届いていた。  遠方の小さな町の消印。宛名の字は少し震えていたけれど、本文は丁寧だった。 『帳簿を渡したことを、私は後悔していません。あなたが私を母と呼べる日が来なくても構いません。ただ、あなたが自分の足で歩いていることを、遠くから祈っています』  私はその葉書を、基金の書類と一緒に保管している。  許しも、和解も、急がなくていい。  泣き声を「うるさい」と切り捨てられ、抱き上げられることもなく、助けを呼ぶ言葉さ

  • 死ぬために嫁がされた私、二度目の転生で冷酷御曹司と運命を変えます   第6話 退勤後の非常階段③

     ドアが背後で重い音を立てて閉まると、オフィスの喧噪が完全に遮断された。 シン、とした静寂。 遠くで車のクラクションが聞こえるだけの、無機質な空間。 一段、また一段と、階段を降りる。 パンプスのヒールがコンクリートを叩くカツッ、カツッという音だけが、やけに大きく響いた。 ブーッ、ブーッ。 スーツのポケットの中で、またスマートフォンが震えた。 骨に響くような、不快な震え。 取り出して、画面を見る。 見知らぬアカウントからの、直接のメッセージ。『人として恥ずかしくないの? 死ねばいいのに』 言葉は、見えない刃だ。 切り取られ、加工され、匿名という安全な場所から投げつけられ

  • 死ぬために嫁がされた私、二度目の転生で冷酷御曹司と運命を変えます   第5話 退勤後の非常階段②

    「会社としては、橘さん個人の意図を問題にしているわけではありません」 人事担当の女は、柔らかな声で、けれど一切こちらに踏み込まない距離を保ったまま言った。「ただ、現時点では関係各所に大きな混乱が生じています。しばらくは出社を控えていただく可能性も含め、会社として適切な対応を検討します」 適切な対応。 その言葉の中に、橘日和の弁明が入る余地は、どこにもなかった。 午後。 オフィスには、目に見えない透明な壁が立っていた。 斜め向かいの紗耶の席は、空席だった。『ショックで過呼吸気味になって、早退したらしいよ』『そりゃそうだよね。信じてた同期に、あんな風に責任押し付けられそうになっ

  • 死ぬために嫁がされた私、二度目の転生で冷酷御曹司と運命を変えます   第4話 退勤後の非常階段①

     カチリ、と。 万年筆のキャップが閉まる硬い金属音が、耳の奥で反響を繰り返していた。 水科凛花(みずしな・りんか)としての呼吸を整えようと、ゆっくりと肺に空気を送り込む。 だが、冷たく管理された天野家の執務室の空気は、吸い込めば吸い込むほど、別の記憶の匂いを喉の奥へ引きずり出してきた。 古いコピー機が吐き出す排熱。 トナーの焦げた匂い。 そして、誰にも言葉が届かなくなった、あの会議室の後の、乾ききったオフィスの空気。 万年筆をデスクに置いても、指先の震えは止まらなかった。 頭に残った橘日和(たちばな・ひより)としての記憶が、終わりのない悪夢のように、再び生々しい輪郭を結び始め

  • 死ぬために嫁がされた私、二度目の転生で冷酷御曹司と運命を変えます   第3話 インクの匂いと、会議室の息苦しさ③

     正しい時系列を、前後関係を残そうとしただけなのに。 視線を泳がせ、斜め向かいに座る紗耶を見た。 彼女なら、わかってくれる。 あのチャットのやり取りの全貌を、彼女は知っているはずだ。「紗耶……」 すがるような思いで、微かに声を絞り出す。 だが。 ゆっくりと顔を上げた紗耶の瞳には、同情も、申し訳なさもなかった。 あるのは、怯えた小動物のような震え。「私……知りません」 震える声が、会議室の静寂に落ちた。「日和さんが……橘さんが、勝手にやったことです。私は、ただ、確認をお願いしただけで……こんな隠蔽工作みたいなこと、知りませんでした」 頭の中が白くなる。 紗耶の目から、

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